K-POPという言葉が生まれるはるか前から、この産業の設計図を描き続けてきた人物がいる。イ・スマン(이수만)。1952年生まれ、2026年で74歳。SMエンターテインメントの創業者として東方神起、少女時代、EXO、NCT、aespaを世に送り出した「K-POPアイドルの父」でありながら、その出発点はフォーク歌手であり、コンピュータ工学の修士であり、韓国で初めてMIDIをアルバムに本格導入した技術者でもあった。2023年に自ら育てたSMを追われた後も、70代にして中国を拠点に新たなグループを立ち上げ、今なおK-POPの地図を書き換えようとしている。その半世紀を追う。
1. 1972年、フォーク歌手としてのデビュー
イ・スマンのキャリアは歌手から始まった。1972年、フォークデュオ「4月と5月(4월과 5월)」のメンバーとしてデビューし、その後ソロに転向。1977年に自ら作詞作曲した《幸福(행복)》が大ヒットし、同年のMBC10大歌手賞を受賞している。歌だけでなく話術にも長け、ラジオDJや司会者としても人気を集めた。つまり彼は、後に「作る側」に回る前に、まず「売れる側」を自分自身で経験した人物だった。この当事者としての感覚が、後のプロデューサー人生の土台になる。
2. 渡米、コンピュータ工学、そして韓国初の「MIDIアルバム」
人気の絶頂にあった1981年、イ・スマンは突然渡米し、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校でコンピュータ工学の修士課程に進む。現地でMTVとアメリカのポップ産業の仕組みに衝撃を受け、「歌手」ではなく「エンターテインメント事業家」になることを志したという。1985年に帰国した彼は、留学で得た知識をそのまま音楽に持ち込んだ。1987年発表のアルバム『New Age』は、韓国で初めてMIDI(コンピュータによる演奏データ制御)を本格的に取り入れて制作された作品として知られている。当時の韓国歌謡界ではスタジオミュージシャンによる生演奏が当たり前で、コンピュータで音を組み立てるという発想自体がほとんど存在しなかった。アルバムは商業的には成功しなかったが、「テクノロジーで音楽を作る」というイ・スマンの姿勢は、後のSMサウンドの原点になった。
3. 1989年SM企画設立 ― 1号歌手ヒョン・ジニョンと「ワワ」
1989年、イ・スマンはソウル・松坡区に「SM企画」を設立する。社名の「SM」は彼のイニシャル(Soo Man)だ。その1号アーティストとして1990年にデビューさせたのが、ヒョン・ジニョン(현진영)だった。「ヒョン・ジニョンとワワ(현진영과 와와)」名義で発表した1集『New Dance』は、当時の韓国では前例のないニュージャックスウィングとラップを取り入れ、《悲しいマネキン(슬픈 마네킹)》が話題を呼んだ。1992年の《かすんだ記憶の中の君(흐린 기억속의 그대)》は国民的ヒットとなり、ソテジワアイドゥル、DEUXと並んで「ダンス音楽としてのK-POP」の原型を作った一曲と評価されている。
興味深いのは、バックダンサーユニット「ワワ」の顔ぶれだ。1期メンバーはク・ジュニョプとカン・ウォンレ、後にCLONとして大ブレイクする2人であり、3期にはキム・ソンジェとイ・ヒョンドという、まさにDEUXを結成することになるコンビが所属していた。つまり韓国ヒップホップの原点と呼ばれるDEUXのイ・ヒョンドも、キャリアの出発点はSMのダンサーだったのである。イ・スマンの最初の作品は、その周辺から次世代のスターまで生み出していた。ただしヒョン・ジニョン本人は薬物問題で活動が中断し、この挫折がイ・スマンに「才能個人に頼るのではなく、システムでスターを作る」という発想を強く植え付けたといわれる。
4. H.O.T.とアイドルシステムの完成
1995年に社名をSMエンターテインメントに改め、1996年、練習生制度によって育成した5人組H.O.T.をデビューさせる。デビュー曲《戦士の後裔(전사의 후예)》で社会派の硬派なイメージを打ち出した後、同じアルバムの《Candy》で一転して明るく可愛らしいコンセプトへ振り切り、10代を中心に社会現象と呼ばれる人気を獲得した。オーディションで発掘し、練習生として長期間育成し、コンセプトとビジュアルを事務所側が設計し、ファンダムを組織的に運営する――今日のK-POPの「当たり前」は、ほぼすべてこのH.O.T.で形になった。その後S.E.S.、神話、BoA、東方神起、SUPER JUNIOR、少女時代へと続く系譜は、すべてこの型の上に築かれている。
5. 《Candy》のMVに見える、イ・スマンの「揺るがない趣味」
イ・スマンという人物を理解するうえで、《Candy》のミュージックビデオほど分かりやすい教材はない。ロッテワールドで撮影されたこのMVは、原色とパステルカラーの大きなニット帽、もこもこのミトン、オーバーサイズのダウンジャケットといった衣装で埋め尽くされ、5人の少年が遊園地ではしゃぐ様子を、まるでおとぎ話の一場面のように描いている。ここにある「可愛らしさ」「清潔感」「現実離れした色彩」「少年性」は、その後30年間、SMのビジュアルに一貫して流れ続ける要素だ。少女時代の白いTシャツとジーンズ、EXOの超能力設定、aespaの仮想世界――装いは変わっても、根底にあるのは《Candy》と同じ「現実の外側にある、色鮮やかで整った世界」への志向である。
実際、イ・スマンはビジュアルの決定に深く関与することで知られている。少女時代の名前を聞いた瞬間にイメージマップを作り、ジャケット写真や衣装の方向性をスタイリストに直接提案したという逸話が残っているほどだ。SMのアーティストに共通する、色白で線の細い、どこか現実感のない端正なルックス――ファンの間で「SM顔」と呼ばれるその傾向も、元をたどればイ・スマン個人の審美眼に行き着く。2022年にNCT DREAMが《Candy》をそのままリメイクしてヒットさせた事実は、26年前の彼の趣味が今もなお「売れる」ことを証明している。
そして2024年11月、A2Oの練習生ユニット「A2O Rookies LTB」が、この「Candy」を丸ごとリメイクした公式映像を公開した。舞台は中国、メンバーは中国人中心、時代は28年後。それでもカラフルな衣装、ふわふわの手袋、カメラに向かって投げる笑顔、キャンディーを差し出す振り付けは1996年とほぼ同じである。イ・スマンが自分の会社を離れて最初にやったのが、自分の最初の大ヒットを自分の趣味のまま作り直すことだった――この一本を見るだけで、彼の「好み」が28年間ほとんど動いていないことがわかる。
6. 2023年、自ら作った会社を追われる
しかしSMの物語は美談だけでは終わらなかった。2023年2月、SM経営陣がカカオに新株と転換社債を発行して第2位株主に迎えたことに対し、イ・スマンは差し止めの仮処分を申請。直後に自身の保有株14.8%をHYBEに売却して対抗するという、韓国芸能界史上最大級の経営権紛争に発展した。この過程で、当時のSM共同代表であり彼の甥でもあるイ・ソンスがYouTubeで叔父を公然と批判するという異例の事態も起きている。最終的に3月、HYBEが撤退してカカオが経営権を握る形で決着。イ・スマンは創業から34年目にして、自らの名前を冠した会社から完全に離れることになった。HYBEとの株式売買契約には3年間の競業禁止条項が含まれており、彼は韓国国内でのプロデュース活動を封じられた。
7. 70代で中国へ ― A2Oエンターテインメント
普通なら引退を考える年齢だが、イ・スマンはそうしなかった。競業禁止の対象外である海外に目を向け、「Alpha to Omega」を意味するA2Oエンターテインメントを設立。2024年12月、中国人メンバーを中心とした5人組ガールズグループA2O MAYをデビューさせた。2026年に発表した《Love Got Me Ooh》は中国最大の音楽プラットフォームQQミュージックのチャートで1位を獲得し、70代のプロデューサーがなお市場を動かせることを証明してみせた。
そして2026年、3年の競業禁止期間が満了する。同年3月にはA2Oエンターテインメント・コリアが韓国初の公開オーディション「A2O ZALPHA AUDITION」の開催を発表し、多国籍ボーイズグループA2O SOULの韓国デビューも準備中と伝えられている。6月には400億ウォン規模の投資誘致に乗り出したという報道もあり、韓国のK-POP業界は「イ・スマンが帰ってくる」ことに神経を尖らせている。
まとめ
フォーク歌手として売れ、コンピュータを学び、韓国で初めてMIDIをアルバムに持ち込み、ヒョン・ジニョンで失敗を学び、H.O.T.でアイドルシステムを完成させ、少女時代や東方神起でアジアを席巻し、そして自分の会社を追われてもなお70代で中国から新しいグループを送り出す。イ・スマンの半世紀は、そのままK-POPという産業の半世紀でもある。《Candy》の遊園地から30年、彼の「趣味」は今も現役だ。

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