KARA(カラ)とは? ― 失敗したデビューからお尻ダンス、韓国ガールズグループ初のオリコン1位と東京ドーム、契約紛争、解散、ク・ハラの死、そして15周年の再結成まで

日本でK-POPガールズグループといえば、多くの人が最初に思い浮かべるのはKARA(カラ・카라)か少女時代だろう。だが韓国側から見ると、KARAは少し違う場所に立っている。SMでもYGでもない中堅事務所から出てきて、デビュー直後にメンバーが抜け、一度は「終わったグループ」扱いされ、そこから日本で韓国ガールズグループ史上初のオリコン1位と東京ドームまで駆け上がり、契約紛争と脱退を繰り返し、解散し、メンバーの一人を失い、それでも15周年に5人で戻ってきた。KARAの物語は、K-POPガールズグループが経験しうるほぼすべての出来事を一つのグループで体験した、稀有な記録である。

1. 2007年、「失敗したデビュー」から始まった

KARAは2007年3月29日、DSPメディア(DSP미디어)から4人組でデビューした。DSPはSechs Kies(젝스키스)やFin.K.L(핑클)を出した名門だが、2000年代半ばには往年の勢いを失っていた事務所である。デビュー曲「Break It」は「第2のFin.K.L」というキャッチコピーで大人らしいコンセプトを打ち出したが、結果は惨敗に近く、翌2008年初めにはメインボーカルのキム・ソンヒ(김성희)が学業を理由に脱退。残った3人――パク・ギュリ(박규리)、ハン・スンヨン(한승연)、ニコル(니콜)――に、当時16歳のク・ハラ(구하라)と、わずか14歳のカン・ジヨン(강지영)が加わり、5人組として再出発することになった。

この時期のKARAは、韓国の芸能界で言う「無名時代」を絵に描いたような状態で、ハン・スンヨンがバラエティ番組でカメラに向かって「私たちを使ってください」と頭を下げる場面は、今でもKARAの苦労を語るときに必ず引用される。転機は2008年7月の「Rock U」、そして12月の「Pretty Girl」だった。明るく親しみやすい「隣の家の女の子」路線に切り替えたことで、ようやく世間が振り向き始める。

2. 「ミスター」とお尻ダンス ― 2009年、一曲で国民的グループに

決定打は2009年7月の2ndフルアルバム《Revolution》のタイトル曲「Mister(미스터)」だった。正確には、後続曲として活動したこの曲の「お尻ダンス(엉덩이춤)」である。サスペンダーに短パン、腰に手を当てて左右にお尻を振る振り付けは、当時の韓国では「露骨だ」と一部で批判されるほど話題になり、しかし子どもから中年男性まで誰もが真似できる単純さが爆発的な人気を呼んだ。この曲で、KARAは「Pretty Girl」の中堅から一気に国民的グループへと駆け上がる。

翌2010年2月の「Lupin(루팡)」では黒い衣装で一転して力強いコンセプトに挑戦し、初の音楽番組1位を獲得。11月の「Jumping」も続けてヒットし、韓国でのKARAの黄金期はこの2009〜2010年に集中している。

3. 2010年、日本上陸 ― 韓国ガールズグループ史上初のオリコン1位

KARAが少女時代と決定的に違うのは、日本での成功が韓国での人気を上回った点である。2010年8月11日、ユニバーサルから日本デビューシングル「ミスター」を発売。オリコン週間5位は、韓国のガールズグループとして初のトップ10入りだった。9月には少女時代も「GENIE」で日本デビューし、この年から日本では「KARA vs 少女時代」という構図で第二次韓流ブームが語られるようになる。少女時代が「脚線美」「完璧なパフォーマンス」なら、KARAは「親しみやすさ」「日本語での積極的なバラエティ出演」で日本のお茶の間に入り込んだ。

2011年4月6日発売の「ジェットコースターラブ」は、オリコン週間シングルチャートで1位を獲得。海外の女性グループが発売初週で1位を取ったのはオリコン史上初、海外女性グループの1位自体が約30年ぶりという記録だった。東日本大震災の直後で、KARAはこのシングルの収益を全額義援金として寄付している。同年11月の「ウィンターマジック」、2011年末には少女時代とともに紅白歌合戦に初出場し、2013年1月6日には韓国のガールズグループとして初めて東京ドームで単独公演を行い、4万5,000人を集めた。

2011年9月の韓国曲「STEP」も日本でよく知られており、KARAのMVとして初めて再生回数1億回を超えたのはこの曲である。日本での人気が韓国に逆輸入され、韓国側でも「日本で一番成功したガールズグループ」という肩書きが定着した。

4. 2011年1月、絶頂での契約紛争

しかし、日本での成功の裏で事務所との関係は崩れていた。2011年1月19日、ハン・スンヨン、ニコル、カン・ジヨンの3人(当初はク・ハラも含む4人だったが、ハラはすぐに撤回)が、DSPメディアに専属契約解除を通告する。理由は収益分配の不透明さと、日本活動をめぐる事務所とのコミュニケーション不足だった。パク・ギュリだけが事務所側に残ったことで、ファンダムは「ギュリ vs 3人」という構図で割れ、日本のメディアも連日報道した。

日本デビューからわずか5か月、「ジェットコースターラブ」発売の直前という最悪のタイミングである。約3か月の交渉の末、2011年4月に双方が合意し、5人での活動継続が発表された。契約内容が見直されたことで、以後KARAは「DSPと対等に交渉できたグループ」という評価も受けるが、この紛争でメンバー間に生じた亀裂は完全には消えなかったと言われている。

5. 2014年、ニコルとジヨンの脱退、そして解散へ

2014年1月、ニコルがDSPとの契約満了で脱退。4月には最年少のカン・ジヨンも契約を更新せず脱退し、ロンドンへ留学した。日本での人気を支えた2人を同時に失ったKARAは、サバイバル番組《KARA Project》で新メンバーのホ・ヨンジ(허영지)を選び、4人体制で「Mamma Mia」「CUPID」を出したが、往年の勢いは戻らなかった。2016年1月、パク・ギュリ、ハン・スンヨン、ク・ハラの3人がDSPとの契約を終了し、KARAは事実上解散する。

6. ク・ハラの死 ― 2019年11月24日

解散後、ク・ハラは日本でソロデビューし、ソウルと東京を行き来しながら活動していた。だが2018年9月、元交際相手との間で暴行事件が起き、相手が性的な動画を使って脅迫していたことが明らかになる。裁判では相手に有罪判決が出たものの、一連の報道と悪質なコメントでハラは深く傷ついていた。2019年10月14日、親友だったf(x)のソルリ(설리)が亡くなり、その約6週間後の11月24日、ク・ハラはソウルの自宅で亡くなっているのが見つかった。28歳だった。

日本のファンにとっても衝撃は大きく、この年の秋に相次いだ二人の死は、韓国の芸能界とネット上の誹謗中傷の問題を、国境を越えて考えさせるきっかけになった。2024年8月には、ハラの死後に20年以上疎遠だった実母が遺産を要求した問題を受けて、養育義務を果たさなかった親の相続権を制限する「ク・ハラ法(구하라법)」が韓国国会で可決されている。

7. 2022年、15周年 ― 「WHEN I MOVE」で5人が戻ってきた

2022年9月、RBW(DSPを買収した事務所)が、デビュー15周年を記念してKARAが再結成すると発表した。メンバーは、パク・ギュリ、ハン・スンヨン、ニコル、カン・ジヨン、ホ・ヨンジの5人。2014年に脱退したニコルとジヨンが戻り、ク・ハラの席は空けたまま、という構成である。11月29日に発売された記念アルバム《MOVE AGAIN》のタイトル曲「WHEN I MOVE」は、7年ぶりのカムバックとして韓国でも日本でも大きく報じられ、MVの中にはハラを思わせる演出が込められている。

2024年7月には新曲「I Do I Do」を発表し、8〜9月には東京・大阪で単独公演「KARASIA」を開催。2025年にも日本公演を続けており、40代を目前にした「大人のKARA」は、活動休止ではなく「ゆっくり続けるグループ」として新しい形を見せている。

8. 日本の読者へ ― なぜKARAは日本で「特別」だったのか

KARAが日本で愛された理由を、韓国のファンはよく「気取らなかったから」と説明する。少女時代が完成された芸術品のようだったのに対し、KARAはバラエティで日本語で笑い、間違え、また笑った。ハン・スンヨンの必死さ、ク・ハラの人懐っこさ、ニコルの明るさ、ジヨンの幼さ、ギュリの「女神」キャラ――5人それぞれの人柄が日本の視聴者に伝わったことが、オリコン1位と東京ドームを可能にした。

そして日本にとってKARAは、「韓国のガールズグループがオリコンで1位を取り、東京ドームを埋められる」ことを最初に証明したグループでもある。TWICE、NiziU、LE SSERAFIMが日本で当たり前のように成功する今の風景は、2010年に「ミスター」でお尻を振った5人が切り開いた道の上にある。

まとめ

失敗したデビュー、メンバー交代、お尻ダンスでの大逆転、オリコン1位、東京ドーム、契約紛争、脱退、解散、そしてメンバーの死と再結成。KARAの19年間は、K-POPガールズグループが辿りうる道のほぼ全てを一つのグループで見せている。「WHEN I MOVE」で戻ってきた5人が歌うとき、そこには必ず6人目の席がある。KARAが日本で特別な存在であり続ける理由は、記録ではなく、その空席にあるのかもしれない。

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