前回の記事では、「K-POPの原点」としてソテジワアイドゥル(서태지와 아이들)を紹介しました。今回はその続き――「韓国ヒップホップの原点」の話です。1993年にデビューした2人組、DEUX(デュース)。音楽を作ったイ・ヒョンドと、ステージの華だったキム・ソンジェ。活動期間はわずか2年余りですが、韓国ヒップホップの歴史は事実上ここから始まったと言っても過言ではありません。
そしてこのチームの物語は、韓国歌謡史で最も悲しいミステリーのひとつで幕を閉じます。90年代最高のファッションアイコンと呼ばれたキム・ソンジェの話まで、ソウル在住の筆者が整理します。
「ヒップホップ」を正面に掲げた初のヒットグループ
ソテジワアイドゥルはラップを大衆化させましたが、彼らの基盤はあくまでロックでした(ソテジはロックバンド出身で、ソロ転向後はロックに回帰しています)。一方、1993年4月に「나를 돌아봐(ナルル トラボァ=僕を振り返って)」でデビューしたデュースは、最初から最後までヒップホップを正面に掲げた、韓国初の「ヒットしたヒップホップグループ」です。
さらに驚くべきは、完全なセルフプロデュースだったこと。作詞・作曲・編曲を一手に担ったイ・ヒョンドが音楽を、当代随一のファッショニスタでありダンサーだったキム・ソンジェがビジュアルとパフォーマンスを担当。事務所の企画商品ではなく、20代前半の若者2人が自分たちで作った音楽で歌謡界を揺るがしたのです。2人はデビュー前、ヒョン・ジニョンのバックダンサーチームで一緒に踊っていた仲でした。
名曲の連続、しかし「万年2位」
「나를 돌아봐」「굴레를 벗어나(クルレルル ボソナ=しがらみを抜け出して)」「우리는(ウリヌン=僕たちは)」「여름 안에서(ヨルム アネソ=夏の中で)」――今もリメイクされ、CMに使われる名曲が2年の間に次々と生まれました。2集『DEUXISM』と3集『FORCE DEUX』は、韓国大衆音楽の名盤リストに名を連ねるアルバムです。
問題は、活動時期がソテジワアイドゥルの全盛期と正確に重なっていたこと。音楽性では肩を並べながらランキングではいつも押され、イ・ヒョンドは後に「どんなに頑張っても、ずっと2位だった」と振り返ったほどです。しかし時間が経つにつれ、評価は逆転に近い形で見直されます。「韓国ヒップホップの始祖」というタイトルは、ソテジではなくデュースのものになったのですから。(90年代の韓国歌謡界の裏側については、日本の音楽を”こっそり真似していた”時代の話もどうぞ)
「ストリートで覚えたダンス」の時代
今のK-POPアイドルは事務所の体系的なトレーニングで磨き上げられますが、この時代のダンスグループは、本当にストリートとクラブで踊りを覚えた人たちでした。イ・ヒョンドは「当時、梨泰院(イテウォン)のクラブに行けばソテジが踊っていた」と回顧したことがあります。ソテジも、ヤン・ヒョンソクも、キム・ソンジェも、みんなあのフロアで体をぶつけながら育った世代。加工されていない「生(なま)の味」――デュースのステージ映像が今見ても力を持っている理由です。
90年代最高のファッションアイコン、キム・ソンジェ
キム・ソンジェは、当時「誰もが認める90年代最高のファッショニスタ」でした。スタイリストがつく時代ではなく、本人が直接コーディネート。オーバーサイズのサングラス、ツーブロック、デニムonデニム、タートルネック+ジャケットのレイヤード――彼が着たチェック柄の衣装は、ソウル・江南(カンナム)の服屋で飛ぶように売れたといいます。
ヒップホップカジュアルからクラシックなスーツまで行き来するその感覚は「90年代という時代も、韓国という空間も軽く飛び越えていた」と評され、今もファッション誌(GQ KOREAやAllure Korea)が特集で振り返るほど。この記事に貼ったステージ映像で、ぜひ着こなしにも注目してみてください。30年前の映像なのに古く見えない――それがキム・ソンジェのファッションの核心です。
それぞれの道のための解散
1995年7月、デュースは3集を最後に解散します。不和ではなく、方向性の問題でした。イ・ヒョンドはプロデューサーとして音楽に集中し、キム・ソンジェはエンターテイナーとしてより広いステージに立つため――それぞれの才能を伸ばすための、発展的な解散です。そして4ヶ月後、キム・ソンジェはソロ歌手として初めてのステージに立ちます。
ソロデビュー翌日の朝
1995年11月19日、キム・ソンジェはSBSの音楽番組でソロデビュー曲「말하자면(マラジャミョン=言うなれば)」の初ステージを成功させます。新しい出発を告げる、完璧な夜でした。そして翌日の11月20日朝、ソウルのホテルの宿舎で亡くなっているのが発見されます。23歳でした。
司法解剖では動物用麻酔剤(ゾレチル)の成分が検出され、腕には28ヶ所の注射痕が見つかりました。知人の1人が起訴され裁判が続きましたが、裁判所は、死亡時刻を特定できない点、宿舎に他の人々もいた点、薬物が他人によって投与されたと断定できない点などを挙げ、最終的に無罪を確定させました。犯人も、正確な死因も明らかにならないまま――事件は30年経った今も、韓国芸能界最大の未解決事件として残っています。
この事件は2019年、再び韓国を騒がせました。SBSの看板調査報道番組が5ヶ月かけて取材したキム・ソンジェ編を放送する予定でしたが、裁判で無罪が確定した関係者が「人格権・名誉の侵害」を理由に申し立てた放送禁止仮処分を裁判所が認め、放送直前に中止に。制作陣が内容を補強して同年12月に再編成を試みたものの、再び仮処分が認められ、結局電波に乗ることはありませんでした。「放送させてほしい」という大統領府への国民請願まで登場するほど関心は大きかったのに、このドキュメンタリーは今も公開されていません。真相だけでなく、事件を扱うこと自体が塞がれている形です。
それでも、韓国ヒップホップはここから始まった
実は、イ・ヒョンドの「ヒットメーカー」ぶりはデュース時代から有名で、俳優ク・ボンスンに書いた「너 하나만을 위해(君ひとりのために)」(1994)は歌謡チャート1位に輝きました。解散後の1996年にはソロ活動を開始(タイトル曲「사자후(サジャフ=獅子吼)」)。このソロアルバムにフィーチャリングで参加したのが、後にYGエンターテインメントの看板グループになるJinusean(지누션)でした。そしてプロデューサーとしての本領はここから。盗作事件で崖っぷちに立たされたルーラを再起させた「3!4!」(1996)、Jinuseanを国民的スターにした「말해줘(マレジョ=言って)」(1997)――彼は「ミダスの手」と呼ばれるヒットメーカーになっていきます。
こうして「韓国ヒップホップのゴッドファーザー」と呼ばれるようになったイ・ヒョンド。そして後の世代のラッパーたちはデュースを聴いて音楽を始め、その系譜は今のK-POPまで続いています。実際、BTSは2016年の歌謡祭でキム・ソンジェの「말하자면」をカバーし、あのステージを再現しました。下の映像がまさにそれです。
そして2025年、イ・ヒョンドはキム・ソンジェの生前の声を収めたデュース4集の制作を発表しました。実に30年ぶりの新作です。短く燃えて消えたけれど、韓国ヒップホップの系譜の一番上には、今もこの2人の名前があります。BTSのラップラインも、オーディション番組のラッパーたちも、たどっていけばデュースに行き着くのです。

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